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長田吉太郎

Author:長田吉太郎
長門屋十二代目、長田茶店七代目の四代目吉太郎です!
抹茶とモルト酒が好きな32歳はただいま街おこしの勉強中。

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不連続シリーズ「その時、歴史はヒストリア!!」



シェフの気まぐれサラダ的に気が乗ったら歴史についてご紹介するシリーズ。

第1回は『千利休(1522~1591)』をお届けいたします。

先月2月28日で没後423を迎えた、茶道を大成させ茶聖とも言われた茶人。

「茶道」は“わび茶の祖”である村田珠光(むらたじゅこう)が始めた「わび茶」を武野紹鴎が変化させ、利休が禅の要素を加えて大成させた。

幼名は田中与四郎、祖父の千阿弥から1字を取り「千」の姓を名乗る。

1540年、父が亡くなると法名「宗易」を名乗り「千宗易(せんそうえき)」となる。

「利休」の名は、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の関白就任を記念して行われた茶会において正親町天皇(おおぎまちてんのう)より下賜し、切腹する7年前からは「千利休」り、70歳でこの世を去った。

1522年、大坂は堺の有力な町衆(裕福な商業者)であった魚問屋の子として誕生し、17歳の時に茶の湯を習ったのが北向道陳(きたむきどうちん)、その後19歳で武野紹鴎(たけのじょうおう)に師事した。

それから時は流れて、当時流行であった茶の湯に注目した織田信長(おだのぶなが)は千利休などの茶人を茶堂として迎え「御茶湯御正道」となり、茶道具と一国一城が同等に扱われだした。

「茶道具」は武家のたしなみや、戦の手柄と並び、出世の道具ともなった。

本能寺の変以降は秀吉に仕える事となり、「秀吉の個人的な事は利休に、仕事の事は弟の秀長に言え」といわれるほどとなった。

秀吉の懐刀でしたが、最後は秀吉から切腹が命じられ、京都にてその命を絶った。

切腹の理由は諸説あり、
「茶の湯の見解の不一致」、
「娘を秀吉の側室に差し出さなかった」
「大徳寺山門に利休の木造を安置したから」などなど。。。。

茶の湯のみならず、日本の歴史の一端を担った歴史的な人物であったのは事実でしょう。


続きまして、「The余談!」

諸説ありますが、奥さんは計3人、11人の子供がいたと伝えられているようです。
初めて出来た子供は利休が14歳の時………浮世を流す男性、映画「利休にたずねよ」で主人公に海老蔵が配役されたのはそんなところも有ったのかも無かったかも………。

それではエンディングテーマ♪の「中島みゆき」の「糸」を聴きながらお別れいたしましよ~♪♪♪

つづく
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